2月26日(金)学年発表会(5年生)
5年生は「飛騨んじいと新島」というタイトルで、飛騨の上木甚兵衛について調べたことを劇仕立てで発表しました。
飛騨の地。年貢の取り立てが厳しく、日々の暮らしにも困る農民たち。不安と不満が募り、農民一揆が起きそうになります。
そこへあらわれた、飛騨高山の上木甚兵衛。お役人に直談判に行きます。「このままでは、みな命を落としてしまいます。どうか私ども願いを聞き届けてください。」「ええい、だまれだまれ。そのようなことは許されない。」甚兵衛は、役人に不満をもつ農民の味方したとして流刑になり、62才で新島へ流れてきました。
甚兵衛は心優しく博識で、島民に尽くしてくれました。子供たちに読み書きそろばんなど様々な手習いを教えたり、一緒に野山に出かけ遊んだりしてくれました。
そんな甚兵衛は「飛騨んじい」と呼ばれて、子供だけではなく大人からも尊敬を集め、たいそう慕われていました。
新島に流されてきて十数年、ある日、甚兵衛は病に倒れます。一命はとりとめたものの、不自由な体になってしまいました。年老いた父を思い、息子の勘左衛門は新島へ行くことを役人に願い出ますが、なかなか許しがでませんでした。
やっと許しが出て、新島に来た勘左衛門は18年ぶりに父と再会します。献身的に父の看病をしながら、飛騨んじいと同じように島の子供たちに手習いを教えたり、魚場の帳面付けに雇われたりしました。その献身ぶりは島の人々の心をうち、いつしか「孝行息子」と呼ばれるようになりました。
息子の勘左衛門が新島に来て8年後。甚兵衛は勘左衛門や島の人に見守られて85年の生涯を閉じました。甚兵衛が新島に流されてから23年の月日が経っていました。
その後、勘左衛門には郷里から「早く帰ってきてくれ」という声が届いていましたが、甚兵衛の死後なお半年ほど島にとどまり、父の墓をたて、その墓の隣に合掌する自分の姿を彫りました。そう、このお墓こそ、新島小学校の6年生が毎日お線香を手向けている飛騨んじいのお墓なのです・・・。
聞いていた下学年の児童たちは「そうだったんだぁ・・・」という顔で聞き入っていました。
そして毎年、飛騨の荘川小学校と交流しているのも、飛騨んじいの縁が結んでくれたことも分かりました。
最後に、5年生一人一人が「飛騨んじいと新島」について調べた感想を述べました。「みんなの為を思って役人に進言した優しい人」「新島の子たちに沢山のことを教えてくれた人」「こんな人になりたい」などなど・・・。思い思いの感想が心に響きました。
5年生の皆さん、分かりやすく「飛騨んじいと新島」について発表してくれて、ありがとうございました。発表内容はもちろんのこと、衣装も小道具もとっても良かったですよ!!